概要 世界観のざっくり解釈
灰の時代とは、あらゆる概念と差異が生まれる前の悟りの時代
はじまりの火によって差異=様々な概念(生と死)が生み出された
闇より生まれた幾匹かは最初同列だったが、それぞれに王のソウルを見出した
王のソウルとは、はじまりの火が生み出した概念(心理、法則)に最も通じる魂の在り方である
ニトは死、イザリスは火、グウィンは光、そして人間はダークソウル(欲)を見出した
ダークソウルは一見すると西洋的だが、その内面からは東洋的な思想が伺える。 ここでは仏教思想の視点からダークソウルを読み解いていきたい。
古い時代 世界はまだ分かたれず、霧に覆われ 灰色の岩と大樹と、朽ちぬ古竜ばかりがあった だが、いつかはじめての火がおこり 火と共に差異がもたらされた 熱と冷たさと 生と死と そして、光と闇と そして、闇より生まれた幾匹かが 火に惹かれ、王のソウルを見出した 最初の死者、ニト イザリスの魔女と、混沌の娘たち 太陽の光の王グウィンと、彼の騎士たち そして、誰も知らぬ小人
古い時代
灰の時代、そこに居たのは灰色の岩と大樹と朽ちぬ古竜ばかりであった。
DS3DLCで灰色の巨人法官も居たらしいことが判明したが、ここでは扱わない。
灰の時代とは火が興る前の時代であり、それは明りのない時代、無明の時代とも言い換える事ができる。
無明とは無知である状態のことを示す。「差異が明らかになっていない世界」と解釈すると良いだろう。
仏教では人は煩悩によって苦しむとされる。しかし、そもそも差異のない世界では煩悩すら存在しないのである。
よって「差異が生まれる前の世界=灰の時代」とは仏教における究極の悟りの状態と言える。
ダクソの古竜信仰が、悟りへと至る修行のように描かれてきた理由がここにあるのではないか。
はじまりの火
はじまりの火がおこり、火と共に差異がもたらされた。
はじまりの火によって差異が生まれるとはどういった事だろうか?
分かたれたと表現されるが、二分されたという意味ではない。
何故ならば、光が消えて闇の時代が訪れたとしても、灰の時代に戻ることはありえないからだ。
なぜ灰の時代に戻らないのか? それは光と闇という概念が存在してしまっている世界だからである。
つまり火によって生まれたものとは、光や闇といった"概念"であり、それこそが差異であると言える。
仏教(またはバラモン教)ではこのような世界の法則、理、根源などを「梵(ブラフマン)」とし絶対不変のものと定義する。
科学者が求める究極の数式なんかを思い浮かべてもらうとわかりやすい。
闇より生まれた幾匹
ダークソウルにおける特色として、人と神(グウィン一族)は最初同列に扱われている。
やがて王のソウルを得ることで違いが生まれるのだが、それについては後述しよう。
火は概念を生み出し、その影響で生まれたもの達がいる。「我(アートマン)」である。
我とは、梵(根源的なもの)と繋がった”個の本質=魂”を意味する。
梵という根源がなければ我は存在できない。それは光が無ければ影が存在できないのと同じだ。
梵と我はバラモン教の基本であり、対して仏教では無我と説くが、これについては後述する。
闇より生まれた幾匹とは、火の光(梵)を得て生まれた影(我=魂)をその本質に宿す存在である。
王のソウル
幾匹かが火に惹かれ、王のソウルを見出した。
なぜ王のソウルを「得た」ではないのか?
梵我一如
梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること
それを知ることによって究極の悟りを得る事ができるといった思想
幾匹かが”見出した”王のソウルとは、梵(世界の法則、根源)に最も近い我(魂=ソウル)と解釈できる。
最初の死者ニトは”死”の概念に最も近づいたモノである。
例えばニトが死を司る神(死の概念そのもの)だったなら、ニトが死んだ時”死”という法則は消えてしまう。
しかし梵我一如に乗っ取るなら、概念が消滅することはない。
最も死という根源に近づいたモノは、その力のほとんどを死に捧げているに過ぎないのだ。
火の根源に近づいたイザリスはどうだろう。
それは「はじまりの火」ではなく”火”や”熱”の根源に近づいたモノ達であると言える。
当然ながら「根源=生命」を生み出すには至らず、生まれたモノのは歪なデーモンとなった。
太陽の光はある意味で最もはじまりの火に近い。 生命に恵みを与える象徴であり、瞳は光によってモノを認識する。 認識は差異の観測である。
王のソウルとは、根本に最も近づいた魂
それは梵我一如の悟りに至った証であり、はじまりの火に近づくモノの持つソウルとして相応しい。
最初の火の炉の扉を開ける鍵として、これ以上のものはないだろう。
ダークソウル
誰も知らぬ小人が見出したのはダークソウル
人だけが持つ人間性とはダークソウルの欠片
これが人とその他を分けるが、実体は何なのか?
いつの時代も、人の欲とは変わらぬものだな 無欲の俺には、とんと分からない話だが …だが、それでこそ人の道なのかもな 精々祈ってるぜ。あんたに暗黒の魂あれ
ダークソウルとは欲
黒火球が”重い”理由は人間性の”思い”故なんて話もあるくらいだ。
プレイヤーキャラの不死性はプレイヤーという人間性が残っている限り失われない。
このプレイヤーが居ることによってプレイヤーキャラが存在しているという考えは仏教の無我に通ずる。
無我とは、あらゆる物事、現象、個人は縁起、因縁、因果によって成り立っており、個として永遠不滅不変のものはないとする考えである。
簡単に例えるなら、個人は他人と影響し合っているというものだ。
「私は誰の影響も受けていない。自分個人で独立している」と思っている人は、まさか居ないだろう。
キリストでさえ母から生まれて誰かの作ったパンを食べているのだから当然である。
プレイヤーとプレイヤーキャラは相互に干渉しあって存在する。
これもある意味では梵我一如でありプレイヤーキャラ(我)は本質(プレイヤー=梵)と繋がっているのだ。
(無我は我を全面否定しているわけではない)
火継ぎと薪
はじまりの火を継ぐ儀式は、グウィンを除けばすべて人間が継いできた。
なぜ王のソウルではなく人という薪が必要だったのか。
それは人の持つ欲こそが、差異をもたらす存在だからではないだろうか。
太陽の光は差異を認識させる力はあっても、新たな差異を生むものではない。
しかし人間の欲は、その数だけ無限に差異を生む。
差異を生み出した始まりの火を継ぐに足るのは、人間を人間たらしめる”欲”なのだ。
余談
人が欲によって生み出す差異、執着に囚われる者は「新たな世界」へ至ることはない。
欲を知り、欲に惹かれないものだけが涅槃へと赴くのだ。
絵画のお嬢様が竜の瞳をしていたのは、古竜こそが悟りの景色を知っていたからだろう。